これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

守・破・離

いまのプロジェクトでは朝会の時に持ち回りで小話をすることになっております。で、今日は私の番だったりします。で、守破離について話してみようかと思い、ついでにBlogのネタにもしてしまえという経緯(?)
守破離というのは、世阿弥(能のえらい人)発の言葉らしく、物事の習熟度を示しています。以下のような感じ。

  • 守: 師匠の教えを忠実に守り、型に従った行動ができるようになった段階
  • 破: 時には型を破り、自分独自の工夫をこらすようになった段階
  • 離: 自分独自の型を築くに至った段階、あるいは型にとらわれず自由に表現できるようになった段階

私の理解では、守と破は行ったり来たりするものではないかな、と。型というのは、これまでのノウハウが蓄積されてできたものなので、基本的に良いものであるはず。だから、まずはそれを学び取ることが重要なのであります(巨人の肩に登るってやつ)。守の段階に到達するというのは、単純に型を覚えるだけではなく、なぜその型通りにやらねばならないのかという、理論的な背景(型の目的)も理解できた状態ではないかと思います。何故ならば、その理解なくして破に至ることはできないから。守なくしてルールを外れ破に至らんとすれば、それは「形無し」というやつです。守に到達した上で破に至る行為を「型破り」というのです。
さて、一方で、守を本当に理解するには、何度か破にチャレンジすることもまた、必要なのではないかと思っています。チャレンジし失敗することによって、型の背景になっている考えを真の意味で理解するのではないかと。だから、守と破というのは順番に達成していくものではなく、行ったり来たりしながら、失敗を繰り返しながら、いつの間にか守を理解しつつ同時に破に至るものだと考えているわけです。
最後に離についてですが、まだ良く分かっていません。ただ、これは破の集合体なんじゃないかと思ったり。破に至ることで、「この場合はこうする」という独自のノウハウが蓄積されていくと思います。それは次の型の原型となるものだろう、と。たくさんのif〜then〜elseが集まり、実践できる形へ表現し直され、新たな型へと昇化していくのかなぁ、なんて。
なんにせよ、まずは守。そして守に至るための破。そして破。守なくして破に至った気になるのだけは避けたい。形無しではなく、型破りになろう。