これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

人の行動を縛る心理的な鎖

会社の後輩とメールで「トップダウンってどうよ?」的な話をしているときに、ふと、何が人の主体的な行動を縛る要因になるんだろう、ということを考え始めた。とりあえず、現時点で思うことを書いてみることにする。

3つの要因

以下の3つが揃うと、人の主体的な行動が抑制され、組織が次第に腐敗していくように思う。

  1. 恐怖の文化
  2. 断定
  3. 時々示される理解

恐怖の文化

これはあまり言うことがないのだが、「激しい怒り」というのは、それを向けられた人にとって恐怖である。恐怖とは言わないまでも、かなり嫌な体験だろう。できれば、そんな体験はしたくないと思うだろう。
これにより自主的な行動は抑制される。新しいことを生み出すために大胆な行動をすることよりも、失点しないことが、その人のメインテーマになるんじゃあるまいか。

断定

断定口調ってのは、とても強い。物事を曖昧にしがちという、日本的な文化が背景にあるのかもしれない。一見、迷いなく「これは〜だ」と言われると、なんだか正しそうに思えてしまう。政治家だと、某都知事にこういうのを感じてしまうのだが。
これは実は危険なことだと、私は思っている。断定というのは、その瞬間に別の様々な可能性を消してしまっていると考えるからだ。まぁ、これは余談。
というわけで、この一見正しそうに思える強い意見によって、行動に限界点を設けられてしまう。ある一定の範囲内、つまり断定された範囲内でしか動けなくなる。そこからはみ出る行動は正しくないのだ。そう思ってしまうのだ。

時々しめされる理解

これが最も厄介なものでは無いかと思う。
上の2つを行う人物が、時々理解を示してくれるのだ。いつもではなく、時々。それがポイント。これは前述の2つを強化することになる・・・と思う。
結果的にではあるが、これは感情の揺れ幅を利用した心理操作になっているだ。これについては、こちらを参照。行動分析学的に見ても、「現状を継続」させる大きな要因になっていることが分かる。時々示される理解というのは、いつも示される理解よりも、肯定された人の気持ちよさが大きいのだ。DV夫婦がいつまで継続してしまう原因でもある。
で、この時々示される理解によって、依存が醸成されていく。結果、「自分の行動して良い範囲 = その人が許してくれる範囲」ということになる。で、更に、その結果として「その人しか見なくななる」のである。顧客を見なくなるし、部下を見なくなるし、同僚も見なくなる。そして、なにより自分を見なくなるのではないだろうか。

どーする

こんな状況に自分が置かれていることに気づいたら、どうすればいいんだらうか。とりあえず、私の思うところを書いてみよう。

怒りの原因を取り除くように提案する/行動する

怒りというのは、そのほとんどが「恐怖を原因」としたものではないだろうか。怒っている人も、実は何かに恐怖を感じているのかもしれない。その恐怖の原因はなんだろうか。それを取り除けるような提案・行動できれば、怒りが軽減されていくかもしれない。
あと、相手の怒りの感情を無視して、「何を言っているのか」というメッセージ部分に意図的に集中するってのも重要かも。勇気がいるけど。ちゃんと理解するまで、何度でも尋ねる。勇気がいるけど。うーん・・・。

断定に対しては「なぜ?」

断定に対しては「なぜ?」で勝負。考えの背景となっている部分を掘り出して、本当にそれでいいのかどうか、納得のいくまで考える。思うに、断定的な物言いの8割くらいは、浅い考えに根ざしていたり、ちゃんと考えるより楽なだけだったり、単に気持ちいい自己陶酔に浸っているだけだったり・・・な気がする。
ただ、難しいのは「なぜ?」という問いの強さ。人は「なぜ?」と問われると、必死に最もらしい理由を作り出してしまうらしい。ストレートに聞いても、知らないうちに言いくるめられてしまうかもしれない。「Aをすると、何が解決するんですか?」とか「Aをしないと、どんな問題が起きるんですか?」って聞いて、その答えに対して「Aさえあれば、それは解決するのか?」とか「Aさえあれば、その問題は起きないのか?」って聞くなり考えるなりするといいのかも。

自分が大切にしたいモノを必死で考えよう

これからの人生において、自分が本当に大切にしていきたいものは何だろうか?それを必死に考え続ける。そんな簡単に見つかるものでもないだろうけど、考え続ける。
で、何がどうなるかっていうと、自分の価値観にしっかりと根ざした判断ができるようになるんじゃないかと。

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