これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

先週の読書履歴

1冊だけなんだな〜、これが。


だがしかし、ドラッカー。いや、凄い本ですね、これは。ドラッカーは2冊目だけど、さすが「20世紀最高の知性」と言われるだけのことはある・・・。
内容は知識労働者が組織の中で成果をあげるためにどうすれば良いのか、という感じ。だと思う。まだ消化しきれてない・・・。表面的には読み取ったけど、深く考えるとまだまだ色々なものが出てきそうで。気になったところを引用しまくっておこう。

組織の中に成果は存在しない。すべての成果は外の世界にある。客が製品やサービスを購入し、企業の努力とコストを収入と利益に変えてくれるからこそ、組織としての成果があがる。組織の中に生ずるものは、努力とコストだけである。あたかもプロフィットセンターがあるかのごとくいうが、単なる修辞にすぎない。内部には、コストセンターがあるだけである。

うん、そうそう。だから、業務システムは「コスト」にしか効かないと思ったのだ。成果は生み出さない。

外の世界への奉仕という組織にとっての唯一の存在理由からして、人は少ないほど、組織は小さいほど、組織の中の活動は少ないほど、組織はより完全に近づく。
組織は、存在することが目的ではない。種の永続が成功ではない。その点が動物とは違う。組織は社会の機関である。外の環境に対する貢献が目的である。しかるに、組織は成長するほど、特に成功するほど、組織に働く者の関心、努力、能力は、組織の中のことで占領され、外の世界における本来の任務と成果が忘れられていく。

成果をあげる人に共通しているのは、自らの能力や存在を成果に結びつけるうえで必要とされる習慣的な力である。

言いかえるならば、成果をあげることは一つの習慣である。習慣的な能力の集積である。そして習慣的な能力は、常に修得に努めることが必要である。習慣的な能力は単純である。あきれるほどに単純である。七歳の子供でもできる。掛け算の九九を習ったときのように、練習による習得が必要となるだけである。

私は小さいころ、ピアノの先生にこう言われた。「残念ながら、君はモーツァルトシュナーベルのように弾けるようにはならない。でも音階は違う。音階はシュナーベルのように弾かなければならない」。この言葉は、あらゆる仕事に当てはまる。しかし、おそらくあまり当たり前のことだったためであろうが、彼女がつけ加えなかったことがある。それは、偉大なピアニストたちでさえ、練習に練習を重ねなかったならば、あのように弾けるようにはならなかったということである。
どんな分野でも、普通のひとであれば並の能力は身につけられる。卓越することはできないかもしれない。卓越するには、特別の才能が必要だからである。だが、成果をあげるには、成果をあげるための並の能力で十分である。音階が弾ければよい。

成果をあげるためには、貢献に焦点を合わせなければならない。手元の仕事から顔をあげ、目標に目を向けなければならない。「組織の成果に影響を与える貢献は何か」を自らに問わなければならない。すなわち、自らの責任を中心に据えなければならない。

ところがほとんどの人が、下のほうに焦点を合わせたがる。成果ではなく、権限に焦点を合わせる。組織や上司が自分にしてくれるべきことや、自らがもつべき権限を気にする。その結果、本当の成果をあげられない。

貢献に焦点を合わせることによって、専門分野や限定された技能や部門に対してではなく、組織全体の成果に注意を向けるようになる。成果が存在する唯一の場所である外の世界に注意を向けるようになる。

コミュニケーションは、下方への関係において行われるかぎり、事実上不可能である。それは、知覚についての研究がすでに明らかにしているとおりである。上司が部下に何か言おうと努力するほど、かえって部下が聞き間違える危険が大きくなる。部下は、上司が言うことではなく、自分が聞きたいと期待していることを聞き取る。

「組織、および上司である私はあなたに対しどのような貢献の責任をもつべきか」「あなたに期待すべきことは何か」「あなたの知識や能力をもっともよく活用できる道は何か」を聞く。こうして初めて、コミュニケーションが可能となり、容易に行われるようになる。
その結果、まず部下が、「自分はどのような貢献を期待されるべきか」を考えるようになる。そこで初めて、上司の側に、部下の考える貢献について、その有効性を判断する権限と責任が生じる。

貢献に焦点を合わせることによって、横へのコミュニケーション、即ちチームワークが可能となる。「私の生み出すものが成果に結びつくためには、誰がそれを利用してくれなければならないか」との問いが、命令系統の上でも下でもない人たちの大切さを浮き彫りにする。それは、知識を中心とする組織のニーズからして当然のことである。

自己啓発と人材育成はその成果の大部分が、貢献に焦点を合わせるかどうかにかかっている。「組織の業績に対する自らのもっとも重要な貢献は何か」を自問することは、事実上、「いかなる自己啓発が必要か」「なすべき貢献のためには、いかなる知識や技能を身につけるべきか」「いかなる強みを仕事に適用すべきか」「いかなる基準をもって自らの基準とするか」を考えることである。

そして私は、すでにワーグナーと肩を並べる身でありながら、しかも八〇歳という年齢で、なぜ並外れてむずかしいオペラをもう一曲書くという大変な仕事に取り組んだのかとの問いに答えた彼の言葉を知った。「いつも失敗してきた。だから、もう一度挑戦する必要があった」。私はこの言葉を忘れたことがない。それは心に消すことのできない刻印となった。

私は、そのときそこで、一生の仕事が何になろうとも、ヴェルディのその言葉を道しるべにしようと決心した。そのとき、いつまでも諦めずに、目標とビジョンをもって自分の道を歩き続けよう、失敗し続けるに違いなくとも完全を求めていこうと決心した。

この一年に二度の話し合いの中で、いつも私たちは、最後の二時間を使ってこれから半年間の仕事について話し合った。それは、「集中すべきことは何か」「改善すべきことは何か」「勉強すべきことは何か」だった。

毎年八月につくる計画どおりに一年を過ごせたことは一度もない。だがこの計画によって、私はいつも失敗し、今後も失敗するであろうが、とにかくヴェルディの言った完全を求めて努力するという決心に沿って、生きざるをえなくなっている。

十年あるいは十五年にわたって有能だった人が、なぜ急に凡人になってしまうのか。

彼らは、新しい任務に就いても、前の任務で成功していたこと、昇進をもたらしてくれたことをやり続ける。そのあげく、役に立たない仕事しかできなくなる。正確には、彼ら自身が無能になったからではなく、間違った仕事の仕方をしているために、そうなっている。

何か重要な決定をする際に、その期待する結果を書きとめておかなければならないことになっていた。一定期間の後、例えば九ヶ月後、実際の結果とその期待を見比べなければならなかった。そのおかげで、「自分は何がよく行えるか、何が強みか」を知ることができた。また「何を学ばなければならないか、どのような癖を直さなければならないか」、そして「どのような能力が欠けているか、何がよくできないか」を知ることができた。


うーん、これだけ書き出してもほんの一部。この本が如何に凄いかを物語っているな。