これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

ネガティブな反応が怖い

このエントリーをうpしようかどうか迷ったけど、まぁ、誰かの役に立つかもしれないし・・・。


私は「相手のネガティブな反応」が怖い。といっても、今では随分マシで、ネガティブな反応に出会っても、感情をコントロールすることができるようになったのだけど。
ネガティブな反応には、何かをして怒られるとか、避難されるとか、そういうのだけでなく、悲しまれるとか、しょんぼりされるとか、がっかりされるとか、そういうのも含まれる。相手がこれらの反応を示すことが、嫌でならなかった。
で、いつだったかは忘れたけど、その「嫌」は「怖い」と表現するのが正しいことに気づいた。そして、自分の中に沸き上がる感情の正体に気づいてから、徐々に対処できるようになってきたと思う。

怖いとは、一体に何に対して怖いと感じていたのだろうか。
じっくり考えていくと、私の場合はそれが母親であることに気づいた。
私の母親は特別厳しい訳でもなかったと思うが、時折示す怒りの表現がやや過剰であるようだ。幼少の頃は、それはまさに恐怖の対象だった。
とはいえ、ある程度成長してくれば、当然、恐怖も相対的に薄まってくるものだ。しかし、記憶に刻まれた感情は、私の知らないところで違う形として表にでてくる。
そもそも、人の反応はそれまでの記憶・経験に基づいて決まるものだろう。私は、いま目の前で起きているネガティブな反応と、過去の母親に怒られた状況を、無意識下で結びつけていたように思う。
だからネガティブな反応に対して、怖いと感じていたのだ。
しかし、その感情の元は、幼少の頃に怒られた記憶なのだ。決して、目の前の状況が元になっているわけではない。であれば、今、その感情を持つ必要はどこにもないわけである。
それに気づいてから、私は状況を客観視することで、いまその感情を抱く必要はないんだ、と何回も言い聞かせた。それからは、随分と楽になった。


多くの人が、過去に強く刻まれた何かに縛られ、苦しんでいるように思う。その苦しみの正体を探ると、意外とそれを感じる必要はないんだ、と気づくかもしれない。


誤解なきように付け加えておくが、私は母親から十分に愛情を注いでもらったと感じているし、感謝もしている。ただ、完璧な人間などいないように、完璧な親というものも存在しない。それだけのことだろうと思う。


で、もうちょっと考えたことがある。
一つは、この「怖い」がプラスに働いていた面もあるということ。怖いと感じる状況を回避するには、相手にポジティブな反応をしてもらえばいいのだ。喜んでもらったり、嬉しがってもらったり。それにありつくことが、私は自分を向上させる動機の一つになっていたのは間違いない。これは、今後も上手く活かしていきたいものだ。
もう一つは、虐待である。私程度でこれだけ苦しいのであれば、親に虐待されて育った方は、一体どれほどのの苦しみを抱えるのであろうか。そう思うと、なんとも悲しい感情が沸いてくる。私に何が出来るわけでもないのだが・・・。