これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

おまえはいいよな〜、と言われたことがある

「矢野*1はいいよな〜」
昔、こういうことを言われることが、しばしばあった。どうも私が公私共に順風満帆で充実した毎日を送っているように見えたらしい。
当時の私は、「そっすか?」などと答えつつも、若干の腹立たしさを感じていた。
で、俺がどれだけ努力したか分かっているのか?そう言うあなたは、俺と同じくらいの努力をしたのか?なーんてことを、思ってたわけです。
まぁ、視野が狭いね。若気のいたりだ。


今は前よりも分かることがある。


自分がどれだけ努力したかを、他人と比べて語ることはナンセンスだ。どれだけ頑張ったかなんて、主観だし。また、人が置かれた状況をどう判断するかも、その人がどう感じるかに寄るところが大きい。同じ状況でも、感じる辛さは違うだろう。比較できるものではない。
今、「矢野はいいよな〜」と言われたら、どう思うだろうか。多分、「ああ、この人は現状が辛くてたまらないんだね。俺が楽そうに見えるんだね。」と聞き流して終わりだろう。何ら、感情の高ぶる要素はない。


ただね。一つ思うことがある。


「○○はいいよな〜」と言っている間は、その人の状況が好転することはないだろうな、と。いや、好転するかもしれないが、それは運が良ければ、であろう。運で手に入れたものは、運で手放すことになる。
「○○はいいよな〜」という言葉には、「○○は幸せな環境にいて運がいいよな。俺だって○○みたいな環境なら、今とは違ってry・・・」という考えがベースになっているように思う。
確かに、運・不運というのはある。でも、他人が幸福(そうに見える)だからといって、それと比較し、自分を不幸の中においてどうするのだろうか。運や環境などの自分以外のものに、今の自分の状況の責任を転嫁できるのは精神的に楽だ。しかし、それでは何も変わらない。ただ、苦しい状況が続くだけなのだ。


自分の置かれた状況・現実を自分のものとして受け入れる。自分がもたらしたものかもしれない、と疑ってみる。そして、少しでも今と未来を良くするために、自分に出来ることを必死に考え、折れそうになる心を支えながら、行動に移す。必死に考えた結果、そこから逃げ出すとい選択でもいいのだ。それが自分の意志で選んだものであるなら。
ただひたすらに、受け入れ、考え、選び、そして実行していく。その地道な蓄積が、今と未来を良くするのだと思う。

*1:私のことでございます