これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

知識を得ることの意味

自己の成長のために最も必要となるものは経験である。知識ではない。知識を得るだけでは、成長はできない。と、思っている。成長はあくまで、実践した上での経験によるものだ。RPGでもレベルアップするためには「経験値」が必要だ。
さて。
では、知識を得ることはムダなのか。
そうではないと思う。知識をあるかどうか、つまり知っているどうかによって物事への解釈の仕方が変わる。いま、目の前で起きている事象をどう理解するかは、その人が持っている知識と経験に依存する部分が大きいのだ。
経験を得るには、実践しなくてはならない。しかし、実践するには時間と労力がかかる。この世の全てを経験するのは、まぁ、不可能だろう。
しかし、知識を得るコストは経験することに比べて、随分と低い。例えば本を読むだけで知識をえることができる。これを経験で得ようとすれば、とんでもない時間と労力がかかるであろう。


知識があると、いま目の前で起こった事象に対して、知識を紐付けることができる。
ああ、これはつまりこういうことなのか、と。
これはとても大きなことなのだ。
人は何か分からないことがあると、特にそれが負の属性を持つものであれば、属人的に判断しがちだ。こうなっているのは、誰それのせいだ。そう考えてしまうのである。
だが知識があれば違う。その原因が見えてくる。属人的な問題ではなくて、仕組みの問題として捉えることができる。
仕組みの問題として捉えることができれば、改善することが可能になる。他人は変えることは出来ないが、仕組みならば変えることも不可能ではない。
これが知識のある/無いの差だと思う。


知識があることで、いま起きている問題の原因を、属人性を排除して理解することができる。属人性が排除されることで、改善へ取り組むことが可能になる。そして、取り組むことが、その人の経験として蓄積される。経験から得られるものは、知識のそれとは比べものにならない。
こういった繰り返しの蓄積が、大きな差になる。
知識を得ることの意味の1つは、こういう所にあるのではないだろうか。


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