これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

一般化して非難することの愚かしさ

ネット上で、特に匿名の場合に見かけることが多い言論として、

  • これだから男は○○だ
  • これだから女は○○だ
  • これだから××人(どっかの国や民族)は○○だ

というものがある。
対象を一般化して非難しているわけだが、こういう非難の対象になっているのは、一体誰なのか。とても幅広い人が対象になってしまうのだが、必ずしも○○に該当するわけではない。
恐らく、こういった非難の元になっているのは、その人が見聞きした「ある人の言動」だろう。
それを何故、全体に広げるのだろうか。これはとても不適切なことだと思う。


人は見たいものを見る。
だから、例えば元々もっている根拠のないイメージがあったとして、それに沿った事例を見つけると、さもそのイメージを証明するものであるかのように扱ってしまうのかもしれない。
しかし、それは違う。
その非難は、その人がみた「ある人の言動」に対して向けられるべきものであって、一般化した全体へ向けられるものではない。


相手に何かを訴えかけるとき、その深さに3つの階層があると聞いたことがある。

  1. 言動
  2. その人の価値観
  3. その人の生まれ持った性質
    • 性別や種族、出身地、体格等

下になるほど、人にとって深い根っこの部分になる。深くなるほど、良くも悪くも相手を大きく揺さぶる言葉となる。
だから、賞賛するときはより深い部分に届くように、批判するときは浅い部分に触れるようにするのがいいらしい。


一般化した非難は、とても根本的な部分に触れる非難になることが多い。自分の覚えのないことで、この深い部分に触れてくるような非難を受けたら、一体どう思うだろうか。
その性別であることだけで、非難の対象とされてしまったら、どう思うだろうか。
その国/地方に生まれただけで、非難の対象とされてしまったら、どう思うだろうか。
肌の色だけで、非難の対象とされてしまったら、どう思うだろうか。
こういう非難を一言で表現することができる。
それは「差別」だ。


一般化することは、物事を単純にすることができるので、何かを理解するときにはとても便利なツールになる。議論するときも、個別の事例に囚われることなく進めることができる。しかし、これを「攻撃するための手段」として用いるのは、不適切なのだと言いたい。
一般化した非難を行うとき、恐らくイメージしているのは漠然とした実体のない全体だろう。
しかし、それを受ける人は、間違いなく具体的な実体を持った、心を持った「個人」なのだ。



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昨日、某匿名のネットサービスで、こういった事例を見かけて、勢いで書いてしまいました。
怖いなと思ったのは、意識しないところで私自身が同様の言動をしていないだろうか、ということでして。人の振りみて、我が身を直せ。もし私がこういった言動をとっていたら、遠慮無く指摘して欲しいと願います。