これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

ネットによって我々の身に起こっていること

インターネットによって情報流通の量も速度も格段に上がった。色んな情報がネット上を日々飛び交っている。
これは個人の情報発信能力が飛躍的に伸びたわけではなくて、発信する人の数が爆発的に増えたからだ。驚くほどの量の新しい(でも、どこかで見たことがある)情報が、ネット上に乗っかってきている。
また、個人の情報発信能力が飛躍的に伸びたわけではないのと同様に、情報を受け取った一人ひとりが行動を起こし、何らかの結果を出すまでに必要な時間も、以前とさほど変わっていない。だから、ある情報に刺激を受け、行動を起こしたとしても、結果が出るまでの間に、それと相反するような情報、あるいはより刺激的な情報を目にしてしまう。
我々は、昨日得た情報によって行動を起こし、今日得た情報によってそれを後悔し、明日には止めてしまっている。かもしれない。


早めに止めておいてよかった、という場合もあるかもしれない。しかし、それでも大抵のことは、やり続ければ何らかの成果を得るはず。失敗したという経験すら成果だし、多少方向が間違っていたとしても、それで成功しないわけではない。富士山の頂上なのか、東京タワーのてっぺんなのかという違いはあるかもしれないけど。
問題は、情報を得ただけで、これはダメだと見切りをつけてしまうことなんだろう。肝心要の「経験知」が得られない。


たくさんの情報を得ると、賢くなったような気がする。それが良くない。
人は自分の見たいものを見る。そして、ネット上にはあまりにも多くの情報があるので、自分の考えを肯定する意見が、大抵の場合、存在する。
この「自分の考え」は、意識しないと楽な方に流れてしまう。「やる」というのは大変なので、油断すると「やめよう」という方向に力が働く。そこに、止めることを肯定するかのような情報が入ってくると、上手い具合に自己正当化できてしまう。
しかし、実際は何が正しくて、何が間違っているかなんてのは、簡単に判断できるものではないし、答えがないことの方が多い。特にそれが未来のことを指しているのであれば、なおさらだ。分からないからやってみる。やってみた結果、自分にとってはどうだったのか、というのが分かるようになる。
それが「経験知」なのだと思う。自分だけが持ちえたものだ。きっと、それにこそ価値があるのだ。


情報を得るというのはインプットだ。アウトプットではない。
アウトプットしていないのであれば、今居る場所から「一歩も動いていない」のだ。どれだけ有益な情報であっても、アウトプットしない限りは意味がない。
効率的に情報収集したとしても、偶発的に情報が入ってきたとしても、そのインプットを自分の活動の中のどこでアウトプットできるのかを意識していきたい。そんな貪欲さがあってこそ、情報は生きてくるのではないだろうか。ネットを有効に活用できるのではないだろうか。
情報を得ることによって、アウトプットをしない方向へ舵を切ってしまう(=行動を止めてしまう)のは、とても勿体無いことなのだと思う。