これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

気づきと学びとは

気づきと学びって、つまりどういうことだろうって考えてみた。


気づきとは直感の産物であり、イメージの世界であるように思う。あるインプットが別のインプットと結びついた瞬間、気づきが生まれる。気づきによって新たな視点を得ることができるので、その先の思考をより豊かにしてくれる。
学びとはロジックの世界だ。気づきによって得られた視点を、言葉として表現する。言葉として正しく表現するには、そこに論理が必要だ。実際に外ヘ向かって言葉として表現するかどうかはさておき、気づきを元に知識や行動を修正していくためには、その前段階として、気づきを「言語」として認識する必要がある。因果関係を明確にするために。○○だったから、××だったのか。だから、△△すればいいのか。そこまで行き着いてこそ、「学び」なのだと思う。


言語化のない気づきは、消え去ってしまう。はっとなる瞬間があるのだが、それが具体的にどういうことなのか分からない。イメージは大きな方向性を捉えるには素晴らしいのだが、具体的に表現するのは難しい。具体的に表現できなければ、具体的な行動に落とし込むこともできない。行動に結びつかなければ、その気づきは何かの価値を生み出すこともなく、記憶に定着することもなく、ただ消え去るのみ。
ところで読書というインプットは実に効率がいい。経験というコストを払うことなく、知識を得ることができるし、様々な言語的表現を仕入れることができるので経験の言語化にも役に立つ。
読書は気づきと学びの基礎体力みたいなものを上げてくれるような気がする。


もちろん、気づきを言語化しただけで終わっても意味がない。その先のアウトプットにこそ・・・いやアウトプットにのみ価値がある。気づきと学びの成果は、外へアウトプットされてこそ得られるものだ。
気づきも学びも、その前段階のインプットすら、アウトプットのためにある。そして、アウトプットにより経験を得る。経験は気づきをもたらす。気づきは言語化され知識となり、再びアウトプットへと結びついていく。
良く考え、良く行動する人は、このサイクルが自然に回っているのだろうと思う。余り考えずに、行き当たりばったりで行動する人には気づきと学びが足りない。考えることは良くするのだけど、行動しない人にはアウトプットが足りない。そんな感じだろうか。


ああ、頭がカオスってきた。この辺で止めておこう。ちょっと調子悪いな。