これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

メソッド化できてこそ、人に教えることもできる

人にノウハウを伝える場合、それがメソッド化されていないとちゃんと教えることはできないんじゃないか、という話。

メソッド化されているとは、どういうことか

メソッド化されたノウハウというのは、なるべく属人性が排除され、ゴールまでの手順が明確になっている。形式知として表現された経験と言ってもいい。
また、属人性が排除され、手順が明確になっているので、訓練によってその手法を身につけることが可能だ。身につけたあとは、繰り返し、一定の質で成果を出すことができる。オリジナルの人と同じくらいの100の成果は出せないかもしれないけど、70〜80の成果は期待できるという感じ。よほどの悪条件が揃わない限り、再現性があるのだ。

メソッド化されていないノウハウ

ノウハウが属人性を持っているか、または手順が明確でない場合、そのノウハウはその人の手を離れることができない。所謂、職人の世界だ。ケースバイケースで、個人の能力に基づき独自に判断、実行する。当然、人によって成果のばらつきが大きい。場合によっては、同じ人であってさえも成果の質が一定にならない。
暗黙知の世界なので、そのままでは明確に外に向けて表現することができないし、形になっていないのでブレることなく表現するものも持てていない。だから、都度、ケースに応じて何か言うことはできるけども、内容はその時その時で変わるかもしれないし、体系的に教えることが出来ないので相手のスキルにもならない。多分、「教える」というよりは「見て盗め」という世界。

何となく教えた気になってるんじゃないんですか?(修造風に)

別にメソッド化されてないから悪いというわけではない。暗黙知でしか成り立たないものもあるだろう。それはそれでいいのだ。
ただ、そうであるならば、教えられるノウハウ、教えられないノウハウというものがあるわけで。よろしくないのは、教えられない状態のものについて喋るだけ喋って、教えたつもりになってしまうことではないだろうか。ましてや、それでもって「教えたはずなのに、なぜ出来ない!」はNGの極み。教え方が悪いのだ。あるいは、そもそも教えられる状態になっていないのだ。


しかし、ここまで書いて思うのは、自分にどれほど「教えられるノウハウ」があるんだろう、ということで。属人性を排除して、明確な手順に落とし込めるものがどれだけあるだろう。
形に出来ないスキルは、スキル足り得ないように思える。形がないから一貫性を保てない。相手に教えるだけでなく、自分にとっても、一定の質の成果を出し続ける能力として、しっかり身に付いているとは言い難い状態なのかもしれない。