これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

本当に幸せを願える強さ

ただただ、かなしかった
あー、うん。なんとなく分かるような。もちろん、感覚なので元増田さんのそれとは違うのかもしれないけど。


何かを純粋に信じている人をみると、なぜか胸のどこかがチクリと痛むことがある。その人の希望通りになればいいと願いつつ、恐らくそれが叶わないであろうことを想像してしまうのだろうか。もっと物事は打算的に動くところがあり、それがその人に降りかかって欲しくない現実をもたらすと想像してしまうからだろうか。
近しい人のことでない場合、私はそこから目を背けてしまうだろう。私の想像する現実を、たぶん見たくないから。
近しい人のことである場合、私は私の想像する現実が訪れないように、私にできることをするだろう。どこまでするかは、その人との関係性に依存するけど。ただただ、その人の望みどおりになって欲しいと願う。


だけど、こういう心理の動きは、私の弱さであり、驕りだろうと思う。
その人の幸せを望みながらも、救おうとしているのは自分の心に他ならないのではなかろうか。私は表面上、その人のことを自分より弱いと判断しているのだろうけど、実は弱いのは自分だ。恐らく現実化するであろう未来を直視できない、自分なのだと思う。
私は何故に、その人が自分より弱いと断じるのか。私の想像するよりも遥かに力強く、降りかかる現実を乗り越えられるかもしれないのに。その可能性を信じることができないから、私自らの口で想定される未来を告げることができない。弱い。
あるいは、その人はとっくに様々な可能性について想像できているのかもしれない。もしかしたら、対策まで打っているかもしれない。それを微塵も想像しない驕り。上から目線でみていることに気づく。お前(私のこと)が一体どれほどのものかよ、と。


大切な人であれば、その人の本当に幸せを願うのであれば、自分の弱さから逃げるな。驕るな。
その人の可能性を信じ、自分の考えを告げろ。仮にその人が打ちのめされる未来がやってきたとしても、再び立ち上がることを信じて支える覚悟を持て。一緒に乗り越えていけばいい。
そんな強さを持ちたい。