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これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

論理性が成長へとつながる

教授からのメッセージは鋭い視点と文体が魅力的な良文だと思うけど、中でも

大発見は往々にして、論理体系の中から論理にはずれるものとして顔を出してきます。論理性がなければ論理にはずれたものを認識できませんから、貴重な機会を逃してしまうでしょう。

にはしびれた。なるほど!
あわせて、

論理の世界は過去の最適化の世界に過ぎません。

も考えてみると、面白いなぁ、と思う。


既存の知識で論理的に説明できるものというのは、あくまでも過去の延長線上にあるものでしかないのだね。だから、既存の知識で説明できないものに出会ったとき、新たな発見をするチャンスなのだ、と。


それで、まぁ、学術レベルのことを語ることは私にはできないので、個人レベルの話へ落とし込んでみる。
誰しも、これまでの経験や学習から、なんらかの知識を持っていることだろうと思う。ところが、その知識と符号しない事象が目の前で起きることがしばしばあるわけだ。その際、よくある反応としては、それはおかしいと断じて、目の前で確かに発生している事象にも関わらず、どこか現実の方が間違っていると決め付けてしまうことだ。例えば、

  • この自分への評価がおかしい。評価者が間違っている。
  • 今回上手くいかなかったのは、たまたま運が悪かっただけだ。
  • 今、自分がこの状況に置かれているのは、あいつがちゃんと行動しないからだ。

といったように。
だがしかし、目の前にある事象は、確かに観測された事実に他ならない。現実のことなのだ。それが起こっていることは、疑いようのないことなのだ。しかし、自分の持つ知識では、論理的に説明できないとする。


これはもしかしたら、発見のチャンスではないのだろうか。
個人レベルでの発見とは、「気づきと学び」だ。つまり成長のチャンスだと言える。


なぜ、これは起こったのか?
なぜ、あの人はそう行動したのか?
なぜ、こんな結果になってしまったのか?


これは所謂自己責任論の話ではないと思っている。最終的に、彼のこういう行動に原因があり、だからこの結果になったんだと結論付けてもいい。
ただし、それは事実を元に論理的、かつ適切に説明できるものではなければならない。そうできずに、大半を主観的な解釈に寄って説明することしかできないのであれば、一旦、その意見は脇に置いてみてはどうだろうか。もっと論理的に説明できる理由を探してみると、そこに学びがあるのではないかと思う。
ここでは、他人に失敗の責任を押し付ける例をあげたが、これとは逆に何でもかんでも自分のせいにしてしまう傾向がある場合も、あるいは結果が失敗ではなく成功である場合も、同様ではないかと思う。主観的で感覚的な解釈をして、それでよしとしているなら、そこあるとっても大切な発見のチャンスを逃しているのかもしれない。