これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

社会の中で位置を知るために

私には最近・・・というか比較的ずっと悩んでいることがある。悩んでいるというか、「どうすれば分かるだろう」と、ふと思い出したように考え続けているという感じ。それは、

  • 社会の中にあって自分がどういった位置付けにあるのか

ということだ。どう見られているのか、と言った方が分かりやすいかも。それで、金曜日にセミナーに行ったんだけど、そこの懇親会での会話から色々と思うことがあり、ちょっと現時点での考えを纏めてみようと思う。

社会というシステムの中にある自分

自分をどれだけ客観的にみれるか。それはつまり、社会というシステムの中において、自分の現状を知る行為だと考えている。現状をしっかりと認識できるから、その先へ進むための道もまた見えるのでないか。
まぁ、そう考えているわけだ。
だけれども、自分を客観視することはとても難しい。だって、自己評価なんて、厳密に言えば主観しかそこに存在しないわけで。だから、正確に知ることはできないだろうけど、大雑把にでいいので把握する方法は無いものかと。


一つは今、何を自分が得ているのかで判断することはできるだろう。例えば、収入。

  • いまあなたが得ている収入は、あなたが社会にもたらしている価値と等価である

という言葉を聞く。恐らく、一つの尺度として参考になるだろうと思う。収入以外にも、どういう人間関係を、資産を持っているか。そういうもので判断することもできるかもしれない。
しかし、だ。これらは結果なのだ。原因があるから結果がある。そして、原因とは行動である。行動を修正すれば結果もまた変わるわけだけど、どう修正すれば良いかを判断するには、最終的な結果だけではいささか情報が不足しているのではないだろうか。

他人から得られる違和感に注目する

そこで、もう一つ、判断の拠り所とできるものを手にしたい。それは他人からの評価だ。
といっても誰かに自分の評価を聞くとか、そういう話ではなく。いや、そうしてもいいけど。
私が思うに、他人との会話やネット上のコメントから感じる違和感、それに注目するといいのではないだろうか。ここでいう違和感とは、大きく

  • 不遇感
  • 過剰な評価

に分けられると思う。会話をしていれば、その中から、自己評価に対して不当に低い、あるいは過剰に高いと感じるような言動を受け取ることがあるはずだ。明示的に示されていなくても。それをひっくるめたものが、自己評価と社会の中での評価の差分ではないかと思う。


だから、特に不遇感を感じるときはそうだと思うけど、そういった自己評価との差分を正したくなる欲求を抑えて、なぜそうなのかを考えてみるといいのではないだろうか。
それが真実かどうかはさておき、その評価が事実としてそこにあるんだから、不遇感・過剰評価に反発するのではなく、まずは一旦、受け入れる。それで、何故そのように評価されているのか考えれば、修正すべき行動も見えてくるように思えた。

だが、これは必要なのか

勘違いで突き進む、っていうのもあっていいかもしれないなぁ。