これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

「私は人見知りだ」は思考停止かもしれない

こんな経験はないだろうか。

  • 私は人見知りだと思う

と言ったところ

  • えー、それはない。全然見えないよ。

と返された経験はないだろうか。


これは一体どういうことなのだろうか。
自分では自分のことを人見知りだと思っているが、周囲から観測された実際の行動はそうなっていない。心の動きと行動とが一致していないようだ。もちろん、内心は辛いんだけど、頑張って行動してるんだ、と解釈してもいいのだろうけど、もうちょっと掘り下げてみたい。
1つ、確かな事実として分かるのは、人見知りでないように行動することができる、あるいは部分的にでもそうすることができる、ということだろう。できるということは、成功体験なはずで、それを積み重ねればコミュニケーションへの苦手意識はなくなりそうなものだ。しかし、そうはならずに、相変わらずコミュニケーション苦手だな〜、と感じているわけだ。これは、所謂「痛み」の感情だ。


人は痛みを避け、快楽を得ようとする。
コミュニケーションに痛みを感じているのであれば、当然、それを避けようとするのが人として自然な心理反応だ。その反応の蓄積は、アイデンティティーを作り上げる。
例えば、頑張って勉強し、テストで高得点を取るという結果を得られたら、大変気分がいいわけだ。すると、その教科の勉強と快楽の感情が繋がりやすくなる。快楽を得ようと勉強を繰り返すので、また良い結果が出ることになる。それが積み重なると、

  • 私はこの教科が得意である

というアイデンティティが構築される。逆のパターンも同じである。
アイデンティティが出来上がると、どうなるか。例えば、得意教科の勉強が新たなステージに進んだとき、まだ学んでいないことであるはずなので、出来るかどうかはわからないのだが、自分なら何とかなるだろうと強気になれる。実際、そのつもりで勉強すれば、そうでないより理解できる可能性が高い。これはある意味、勘違いなのだが、その勘違いを生み出せるのがアイデンティティのパワーだ。


で、これは当然ながら逆方向にも働く。

  • 私は人見知りだ

というアイデンティティーを持っている人間が、コミュニケーションの上手くいっている部分に目を向けられるだろうか。あるいは、本当に上手くいっていない部分(痛みを生み出しているところ)を見極めることができるだろうか。
人見知りアイデンティティーを持つことで、コミュニケーション全体に対して漠然として苦手意識を持ってしまう。でも、冒頭の話に戻るが、実際はちゃんとコミュニケートできているところもあるのだ。

  • できていること、できていないとこ。そして、痛みの感情を作り出している部分はどこか。それを改善するにはどうすればいいか。

負のアイデンティティーに捉われすぎると、そういった分析をすることもできない。思考停止に陥ってしまうのだ。


ところで、あなたが苦手だと思っていること、やりたいけど自分には無理だ、と思っていることはなんだろうか?
そして、それは本当にそうなんだろうか?