読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

慣習に従うことの意味

昨日は会社の後輩の結婚式だった。対照的な夫婦で、お似合い。お幸せに。ちなみに、結婚式としては意外なことに、出てきた料理が非常に美味かったなぁ。


まぁ、さておき。


私は結婚しているが、実は結婚式を挙げていない。あと、年賀状とかもほぼ書かないし、クリスマスとか正月みたいな季節感のあるものも、特にこれといったことはしない。まぁ、不良日本人である。
それで何かデメリットがあるかというと、直接的には何か起きたりはしない。間接的にじわじわと何か起きているかもしれないけど。こういった儀式的なもの、つまり慣習を守るメリットって何だろうなぁ、と結婚式に出席しながらふと思った。


多分、

  • 不快に思う人が少ない

ということなんだろうな。
結婚式でも年賀状でも、招待されたり送られたりしても、不快に思われることはあまりないように思う。逆に、その辺をおざなりにされたら、それを不快に思う人は、多少は多くいるんじゃなかろうか。また、仮にそういった慣習が嫌いで、不快感を覚えたとしても、それをおおっぴらに問題とする人は、とても少ないだろう。
他にも、結婚式内でのスピーチとか、ある程度、決まった作法があるように思う。そこを独創的にやってしまったら、面白く思ってくれる人もいるかもしれないが、逆に不快に思う人もいることだろう。そして、「なんて常識のない人だ」と批判されるかもしれない。
これは、その判断が、それぞれの人の主観という、一定ならざるものにゆだねられてしまうからだ。つまり、慣習という基準に沿うことで、個々人の主観から離れて妥当性を判断をされる、というメリットがあるのだろう。その点において、慣習に従って行動するということは、賢い選択なのではなかろうか。


一方で、仕事においては、どうだろうか。慣習に従って仕事をするのは

  • いままでそうしてきたから、今回も同じように進める

ということだ。ここにおいても、多分、同じような心理的メリットは存在する。もっとも、それゆえに厄介なのだが。


本来、今、目の前の仕事をどう進めるのかということは、これまでのやり方を視野に入れつつも、今の仕事の特性を考慮にいれた上で、効果的に目標を達成するため最適化されてなくてはならない。しかし、なかなかそうはならないのだ。
なぜなら、いままでのやり方に従う方が、何かあったときに糾弾してくる人が少ないからだ。


独自のやり方で進めて、仮に失敗してしまった場合、どういった非難の言葉が浴びせられるかは、容易に想像できる。

  • なぜ、いつものようにこうしなかったのだ。だから失敗するのだ。

もしかしたら、それは真実かもしれない。だが、そうではないかもしれない。失敗したかもしれないが、今回のやり方の方が、より適切だった可能性だってある。
だから、失敗の原因をちゃんと分析しなくてはならないのだが、「いつものやり方」から外れたことによって、間違いの原因が明らかであるかのように錯覚してしまう。


逆に、いつものやり方で失敗してしまったなら、次のような反応が想像される。

  • まぁ、このやり方で失敗しちゃったら、仕方ないよな

これであればまだいいのだけど、

  • いままで上手くいっていたんだから、やり方はあってる。他に原因があるに違いない。

と慣習に従ったやり方を絶対視し、他に原因探しをしてしまうと、他者批判に繋がっていく場合もある。多分、これが一番良くないパターン。


と、まぁ、慣習に従うってことの意味を、何となく考えてみた。
思うに、慣習に従うことが悪いわけじゃないのだと思う。仕事においても、それまでの諸々が蓄積された、ベストプラクティスかもしれない。ただ、それは過去の最適化であるので、想定されていない未来には対応できないかもしれない、ってだけだ。
公私両方とも、慣習の目的を忘れ、盲目的に手段に傾倒すると、おかしなことになるのかもしれないなぁ。うん、あんまり纏まってないけど、この辺で。