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これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

性悪説ではなく、性善説で人に接すること

人は目先の欲求に負けやすい。安易な方へと流れ、仕事で手を抜いたり、酷い場合は不正をしたりもする。だから、それを人の本質と捉え、ちゃんとやってないであろうことを前提に仕事のプロセスは組まれる。
作業内容を事細かにチェックしたり、あるいはネットワークを監視したり。何かやっても見つけ出すぞ、とプレッシャーをかける。ISOなんかやってて大量のエビデンスを求められるのも、性悪説がベースになっているようにも思う。


さてさて。
こういう仕組みが必要なことはあるのかもしれない。しかしながら、必要最低限の留めるべきである、と言いたい。組織全体が性悪説を前提にコミュニケーションしている様を想像してほしい。うんざりだ。
上司が、部下が、同僚が、自分に対して端から疑ってかかってくる。そんな風に接してこられたら、心を病んでしまいそうだ。
まぁ、それは極端な例にしても、傾向として性悪説に軸足を置いた組織ってのは、コミュニケーションが防衛的になりがち。ツッコミどころを如何に無くすか。失敗をしないように、損をしないように、そんな風になっていく。
これでは組織の力を活かすことなどできない。利の最大化を追究することができなくなるのだ。


反対に、人は信頼を向けられて接してもらえると、そこに好感を抱く。のびのびとコミュニケーションするようになる。色んな情報が「表で」流れるようになるので、非常に健全だ。
承認がベースにあるので、心の安全性が保たれる。そうすると、マズローの欲求階層ではないが、人はその次を求めることが可能になる。利の最大化を求めて、チャレンジすることもできる。性悪説をベースにした場合と、中長期的な生産性でどちらが上かは言うまでもない。
こういった雰囲気を作り出すのに、組織のリーダーが果たす役割は大きい。リーダーは、基本的に性善説をベースに周囲と接するべきだ。まぁ、行きすぎると「なぁなぁ」になってしまうこともあるので、注意は必要だが。


コミュニケーションとは、鏡だ。
以前、自分が周囲からどう感じられているのか知る方法はないものか、と思うこともあったが、実は簡単だったのだ。周囲が自分に対して見せるコミュニケーションのあり方は、自分のコミュニケーションレベルをそのまま反映しているのだ。
自分がいま、どうあるのかは、自分に対するコミュニケーションを観察すれば分かるのだ。
信頼を寄せるように接して貰えているなら、それはきっと、あなたがその人に対して信頼を示しているからだ。