これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

情報共有とは行間の共有

会議で使う綺麗にまとまった資料。
あれって、あまり情報の共有にはならんよな、と。


例えば、プレゼン資料って、基本的に事細かく文章を書くようなものではない。どちらかというと、喋る内容のお品書き的なものだ。目次としては意味があるけど、ノウハウそれ自体はそこには内。
んだから、発表を聞きながら何かを得ようとすれば、喋っている内容からの気づきをメモしていくわけだ。
まぁ、プレゼンはそれでもいい。
でも、会議資料がそれだとどうかなぁ、と思う。


共有すべき情報って、表向き見せている資料上にはなくって、行間にあるよねって。
勿論、それは資料の作り方によることは分かっている。が、本当に情報共有を考えて作り込まれた資料って、あんまり見ない。
どちらかというと、多くは資料作成の労力を減らすために、形式知として表現しやすいことが書かれているだけで、工夫して共有するべき暗黙知が表現されない感じ。
その辺は、口頭でニュアンスと共に報告されるんだけど、口頭ゆえに情報が留まらずに流れていくし、誤解して伝わることも多い。
作るときに頭に負担をかけてしっかりと表現しないと、会議資料として役に立たんのではなかろうか。どろどろした情報ほど、うまく共有できるように、知恵をしぼらんと。


報告したくないとか、突っ込まれたくないから当たり障り無くしておくとか、共有しても意味がないと思っているとか、色々と周辺事情があるだけかもしれないけど。
しかし、そうすると、問題の根っこはもっと深いが。