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これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

言語が人類を繁栄させた

行動分析学の勉強をしていて、面白い話が載っていました。
人にとって、言語で説明されたものを聞く/読むことは、生まれもった快楽として機能するようです。
そして、これが人類を繁栄させた大きな要因である、と考えることもできるらしいとか。


言語がもたらしてくれた最大のメリットが何かと言えば、それは知識の共有です。
コミュニケーションだろ、という意見もあるかもしれませんが、個人的にはコミュニケーションは言語が無くても成り立つのではないかと考えています。
勿論、言語があった方がいいですけど。
まぁ、これは別の話なので割愛。


もし、言語が無かったとしたら、私たちの学習速度は極めて遅いものとなってしまいます。
なぜなら、経験あるいは直接目の当たりにしたものからしか、学習できなくなるからです。
自分と、自分の周りにいる人間からしか、学ぶことができなくなります。


一方、言語があると、学習が飛躍的に加速します。
ある人の経験が言語化されることにより、それは形式知として保存されます。
保存された形式知は、時間と空間を越えて伝わるようになるわけです。
本などはその代表格ですし、学校で先生から教わっている内容もそうです。
ブログなどもそうですね。
あるいは、単なる世間話ですら、そうです。


言語が存在することで、私たちは知らず知らずのうちに、とてつもなく広範囲かつ大量の経験を学ぶことができているんですね。
いま、この地球上で人類がこれだけ繁栄しているのは、多分、言語の力なのだろうなぁ、と思うのです。


最後に、行動分析学と絡めた話を少しだけ。
冒頭に、言語で説明されたものを聞く、あるいは読むということは、人にとって生まれ持った快楽であると書きました。
なぜなら、そのようにして知識を吸収することは、恐らく、自然界において生き延びるための術を学ぶ、有効な手段だったからです。
逆に言えば、もしかすると、言語化された知識を吸収できなかった人は淘汰され、彼ら/彼女らの遺伝情報は失われていったのかもしれません。
結果、私たち現代人にとって、知識を吸収することが、遺伝的に組み込まれた快楽になったのではないでしょうか。


また、言語を使って説明する側にとっては、読み手/聞き手がいることが、これまた快楽として作用します。
私たちは、聞き手がいるから話すことをしますし、読み手がいるから書くことをします。
知識や経験を言語化して伝えることと、言語化された知識を聞く/読むことは、互いに行動を強化しあう関係なわけです。
よって、人類は言語を使うことを止めなかったし、更には、言語がより有効な説明機能を持つよう、言語自体を進化させて来たのだろうなぁ・・・と思ってしまうのでした。