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これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

真実が見えない「解釈の時代」を生きる僕たちは、生き方を選択する難しさに直面する。

世の中には何が正しいのか、よく分からないことがたくさんあります。

世間を騒がすような事件が起きて、その真実を調べようと思ってもなかなか正しい答えに辿り着けません。なぜなら、必ずと言っていいほど対極の情報が存在しているし、どちらも相応に説得力を持っていたりすることもあります。

少し前の話になりますが、福島の原発事故では、放射能の危険性について色々と話題になりましたよね。僕も自分なりに調べましたが、結局の所、本当はどうなのかは分かりませんでした。最終的に、僕は自分の信じたいように信じることにしました。

 

僕たちは「欲した情報に出会う」世界に生きている

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photo credit: alles-schlumpf via photopin cc

なんでこうなっちゃんだろうな、って思うんです。インターネットで僕たちは情報を手に入れやすくなったはずです。なのに欲しい情報が手に入らない。調べれば調べる程、寧ろよく分からなくなる。

結局の所、分かったのは、インターネットに溢れているのは事実を示す情報ではなく、「発信者の意図に沿った解釈」だということです。

薄々は感じていたのですが、明確に意識できたのは恥ずかしながらつい最近です^^;(岡田斗司夫さんの動画を観てた時だったかな〜?)

 

僕たちは、どんな人でも偏った思考をしています。自分の信じる世界観があって、その世界に一致するものは受け入れやすい。僕たちが何かの情報を探す時は、真実を探しているというよりも、自分の持つ世界観に一致する情報を得ようとしています。

例えば、原発事故の放射能が危険に違いないと信じていれば、危険さを示す情報を得た時に「ほらね」と思うことでしょう。反対に、そんなに騒ぐ程のことじゃないのでは?と思っていれば、それを示す情報を得た時に、やっぱり「ほらね」と思います。

どちらの情報でも得ることができます。それが僕たちが生きる時代の特徴です。「何が正しいかではなく、何を求めるか」で、僕たちの前に現れる情報は変わってしまいます。

生まれた時からこの状態だった人には違和感ないかもしれませんが、科学という「正しさ」のある世界に生きていた僕にとっては、少し奇妙さを感じる世界でもあります。

 

解釈過多の時代へ

では、なぜこんなにも多種多様な解釈が溢れる世界になったのでしょうか?

そんな疑問が頭をよぎりますが、実はよく考えてみれば、以前も「解釈の世界」だったのは同じなんです。以前は解釈を多くの人に届けられるのは、一部のマスメディアだけでした。

マスメディアが、「Aという事件が起きた。B容疑者が逮捕された。こんな事件を起こしたB容疑者はけしからん!」と伝えれば、BがAという事件を起こしたことは事実であり、みんなその解釈にそった世界に生きていました。

 

では今はどうかというと、ご存知の通り、誰もが簡単に自分の解釈を発信できる時代になったんですね。ブログやメルマガ、ソーシャルメディア等によって、僕たちは何時でも自分の意見を誰かに届けることができます。

結果、多種多様な解釈が社会に溢れるようになりました。僕たちは、解釈過多の時代に生きているのです。

 

選べる僕たちの生き方 

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photo credit: Lori Greig via photopin cc

さて、ちょっと違うことを考えてみます。僕たち自身のことです。解釈の多様さが露わになってきたとと関連していると思うのですが、僕たちの生き方も多様になりつつあります。

仮に僕の目の前に10名のメルマガ読者がいて、それぞれの人に「自分の幸せ」について語ってもらったら、十人十色の答えが返ってくるでしょう。幸せの在り方が、人それぞれで実に異なるのです。

 

一生懸命勉強して、良い企業(医者とかなら尚良い)に就職して、定年まで働く。結婚して子供をもうけ、家を持つことができれば立派なもんだ。僕が小中学校の頃には、そんな将来像が、全員ではないにしても多くの人に共有されていたように感じます。

それが今はどうかというと、

  • 就職しない方がいいよ。ノマド的な働き方の方が自由だし。
  • 何言ってんの?それ以前のフリーター論と同じだし。ちゃんと就職した方がいい。
  • ていうか、そもそも「働いたら負け」だから。

とか、

  • 恋愛、結婚なんて面倒なこと、する必要ないじゃん。
  • いやいや。人生のパートナーに出会えることはとても幸せなことだよ。

などなど…面白いくらいに色んな生き方があります。

 

きっと、今の僕たちには「これが幸せ」という、共有できるようなモデルケースは存在しないのだと思います。昔だったら「何を馬鹿なことを」と言われたような生き方でも、許容されやすくなったし、許容しやすくなりました。

これが、解釈過多の時代に生きる僕たちです。

 

だからこそ、僕たちは自分の幸せが分からなくなった 

ただ、幸せのカタチが多様になったということは、少し不便でもあります。

なぜなら、何が自分の幸せかを、自分で描かなければなりません。以前のような、みんなで共有してたモデルケースは無いからです。こいつがなかなか厄介。

以前、ビジョンの話を書いたことがありますが、自分の幸せについて明確に描ける人は、極一部だけなんです。僕たちは自分の幸せについて、あまり理解していません。

自分のことなのに。だから、迷ってしまうんですね。僕の幸せって何だろう、僕のやりたいことって何だろう。

こんな事を考えていると、

な~にが君の幸せ、な~にをして喜ぶ〜♪

わからないま〜ま終わる、そ〜んなのはい〜やだ♪”

ってアンパンマンの歌が頭に流れてきそうですが。この歌詞に強く共感しちゃうくらい、僕たちは自分の生き方が分かりません。

 

この世界に豊富な解釈を使って、徐々に生き方の輪郭を描く。

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photo credit: Stuck in Customs via photopin cc

でも、大丈夫。僕たちには救いがあります。それは、自分の求める世界を部分的にでも形にしてくれる人が、この世の中にはたくさんいるし、それを見つけ出すことも極めて容易だということです。

僕たちは自分の求めるものに出会いやすい世界に生きています。ちょっと探してみれば、下記のような情報や解釈を見つけることができるでしょう。

  • これだ!ここに僕のことを理解してくれる人がいる!
  • うわ、これって面白い〜。誰かに教えたくなっちゃうな〜。
  • そうか、こうすれば成果がでるのか、前進できるのか!
  • 物事ってこういう仕組みで動いているのか…ふむふむ。

解釈過多の世界は、そんな出会いがたくさんある世界です。

僕たちのアンテナで捉えた気になる情報や解釈は、僕たちにとっての生き方のヒントになります(生き方を検索する時代!?いやいや…^^;)。なぜなら、僕たちが気になる情報や解釈には、僕たちの価値観にどこか引っかかっているからです。

だから、ゼロから生き方を描くのではなく、そういった無数の気になったものを使って、徐々に生き方の輪郭を描いていくこともできるのです。

そんな世界に安心したり、ワクワクしたり、違和感を感じたり、漠然と不安を感じたり…感じた方は人それぞれでしょうか。