読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

人類史上、最もコンテンツが溢れている時代を生きるということ。

僕たちは「解釈過多」のパラダイムの中で生きています(詳しくは前回を参照)。そんな僕たちの社会の傾向を知るために、「僕たちの時代では何が豊富で、何が不足しているのか」を探っていきましょう。

色々な意見はあるかと思いますが、僕は次のように考えています。

  • 豊富なもの:情報(解釈とコンテンツ)
  • 不足してるもの:資源、時間、職

 

人類史上、もっともコンテンツが溢れている時代

f:id:h-yano:20131112235011j:plain

photo credit: Stuck in Customs via photopin cc

解釈とコンテンツが余っているのは、言うまでもなくインターネットの普及が原因です。数年前に梅田望夫氏が「ウェブ進化論」という本の中で、国民総表現社会と記述していましたが、今や日本人のほとんどの人が、自分の考えを発信できる世の中です。

以前は、例えば音楽を日本全国の人に届けようと思えば、TV等の大きなメディアで配信する必要がありました。番組制作に影響を与える人の目に止まり、評価されなければ、TVというメディアを使うことはできません。

また、自分の考えを多くの人に届けたいと思っても、その前に新聞や雑誌というメディアに認められなければなりません。解釈やコンテンツを発信するハードルが、とても高い時代だったのです。

 

それに比べれば、今はブログやTwitter、Facebookといったメディアを通して、自分の考えを簡単に発信することができます。音楽にしろ、映像にしろ、Youtubeやニコニコ動画を使えば、やはり簡単に全国(というよりも全世界)に向けて発信することができます。

以前と比較すると、発信者の数が圧倒的に違うのです。今ほど解釈とコンテンツが溢れた時代は、人類史上、存在しません。

 

資源、時間、職が不足している時代

反対に不足しているものは資源、時間、職です。

資源については、今の主要エネルギー源である化石資源の残量、更には環境面に配慮すべきであるといった社会的圧力により、僕たちはエネルギーを大切に扱うものだ、という認識があるはずです。

時間はコンテンツが溢れていることと関連しているのですが、あまりにもたくさんのコンテンツに手が届くために、働いている時以外ですら、僕たちは常に何かをしています。時間管理といった言葉に反応する人が多いのも、時間というリソースが不足していることの証拠でしょう。 

f:id:h-yano:20131114232910j:plain

photo credit: Vincent_AF via photopin cc

最後に職が不足する理由についてです。これも情報化社会の特徴なのですが、同じことをするのに、以前よりも人手が不要になりつつあるのです。

企業単体を見ても、GoogleやAmazonは同じ売上規模の企業と比較して、従業員数がかなり少なくなっていますし、サプライチェーン全体を見れば、販売者と消費者の間に入る中間業者の数は減る傾向にあります。

ITをビジネスに上手に活用すればするほど、人手は少なくて済むようになってしまうのです。

 

情報革命が打ち込んだ楔によって、僕たちの社会は、「解釈とコンテンツに溢れ、資源・時間・職業が不足する」ようになってしまったのです。

 

世界にあふれる解釈を参考に生き方を見つける時代

では、それが僕たちの生き方にどう影響を与えたのか、考察していきます。

まず資源不足、職不足なので、エネルギーやお金を際限なく使って拡大していく考え方には否定的です。省エネやエコといった考え方の方が、僕たちの倫理観には合っているでしょう。お金を派手に使った生活よりも、自分らしい生活を好む傾向にあります。

このような資源不足、職不足の時代は、過去にもありました。その時、人々は時間を使って自分と向き合い、精神性を高めてきたのですが、なんと不都合なことに僕たちには時間も不足しています。

自分とは何者か、自分の生き方とは何かについて知りたい、そんな欲求を抱えながらも、それを見つける時間を持てないのです。 

f:id:h-yano:20131114232528j:plain

photo credit: Montclair Film Fest via photopin cc

そこで僕たちは「質の良い解釈」を求めるようになりました。質の良い解釈とは、自分の価値観と一致していて、心地の良い解釈のことです。

なにせ解釈は豊富に存在します。自分すら気づいていなかった、あるいは言葉にできないでいた価値観を表現してくれている解釈・コンテンツは必ず存在します。そしてそんなものに出会えた時、僕たちの心は踊るのです。

  • これだ!ここに僕のことを理解してくれる人がいる!
  • うわ、これって面白い〜。誰かに教えたくなっちゃうな〜。
  • そうか、こうすれば成果がでるのか、前進できるのか!
  • 物事ってこういう仕組みで動いているのか…ふむふむ。

僕たちはAppleの創設者であるスティーブ・ジョブスのことを持て囃し、彼の死を惜しみました。それは彼が、僕たちの言葉にできないでいた、形にできないでいた、自分たちの価値観を表現してくれていたからかもしれません。

iPhoneが見せてくれたのは、僕たちの価値観に沿った、新しい生き方(ライフスタイル)の一つだったのだと思います。

僕たちは、「言葉にできない、形にできないでいる自分の価値観を、言葉にしてくれる人、形にしてくれる人を求めている」のです。

 

最後に残った違和感。そして僕たちの自由について。

解釈過多の時代。こんなに楽しい社会は、いまだかつて存在したことがありません。

面白い!

楽しい!

感動した(;_;)

怖い><

ドキドキする…

ありとあらゆる感情を味わえる社会です。ついこの前も、電王戦という将棋のイベントでとても感動しました(※この記事を書いたのは2013年5月)。僕は、今の時代を心の底から素晴らしい社会だと思っています。いい時代だと思います。

f:id:h-yano:20131114232020j:plain

photo credit: neonihil via photopin cc

一方で、そういった疑似体験や他人の解釈によって自分を形作ることに、どこか空虚さを覚えてしまうのかもしれません。多くの人が解釈を形にし、コンテンツを発信する姿をみて、自分も…と願うものの、いざやってみると誰かのモノマネのように感じる。

自分らしいって何だろう。

自分にしかできないこっって何だろう。

何が僕の幸せなんだろう。

何をしたら、僕は喜ぶんだろう。

そんな疑問を抱えながら、次から次に新しい解釈やコンテンツを求める。そんなことを繰り返しているのが、僕たちなのでしょう。こういったことを前提に、【これからの僕たちの自由】について考えていくと良いと思います。:)