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これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

評価と信頼を確立することが、僕らに自由と生きる糧をもたらす。

ここまでに述べてきたように、様々な解釈が世の中に溢れるようになったのは、やはりインターネットの普及がかなり影響しています。

多くの人が自分の考えを発信できるようになったし、検索エンジンやFacebookをはじめとするソーシャルネットワークによって、発信する人と受け取る人が出会いやすくなりました。いまは僕たちが望む情報に、極めて到達しやすい世界だと言えます。

 

情報の到達容易性は評価の一極集中をもたらした

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photo credit: marcp_dmoz via photopin cc

望む情報への「到達容易性」が上がったことで、ある現象が起きるようになりました。

それは、特定のコンテンツ、発信者への一極集中です。特定の発信源に、いままでもより多くの人が集中するようになったのです。

これと同じ現象は、高速道路や鉄道網等の移動手段の整備によっても起きています。僕たち人間は、自分の手の届く範囲で一番優れた情報やコンテンツを求めます。では、その手の届く範囲が広がるとどうなるのでしょうか?

 

手の届く範囲が狭い間は、「この街一番の~」という枕詞が成り立ちました。しかし、いまや隣町どころか、首都圏、場合によっては日本全体で~、といった極めて大きな範囲に手がとどくようになってしまったのです。

そうすると、仮に”この街一番”だとしても、より優れた評価を得ている人が自分の手の届く範囲に入れば、僕たちはそちらを求めるようになったのです。

移動手段の発達は都市部への一極集中を産みましたが、情報発信手段の発達は、その競争範囲を一気に日本全国へと広げていったのです。僕たちは、自分の視界に入るものから、一番”良さそうなもの”へと向かいます。

今の時代、多種多様なサービスや商品、人、団体が存在していますが、あるカテゴリに限って言えば、やはり第一人者に人が集中しているのです。これが情報革命のもたらした現象の1つです。

僕たちは優れたものに一極集中してしまうのです。

 

「○○ならば××さん」と認識されることが評価の鍵

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photo credit: VinothChandar via photopin cc

解釈過多の時代では、似たような解釈は必ず存在します。似たような解釈、情報、コンテンツが溢れる中で、僕たちは何を基準に選択するのでしょうか?

今や僕たちの最も重要視している情報は、コンテンツそのものよりも、実は「誰が」それを提供しているのかだったりします。○○ならば××さん、と思われていることが注目の鍵だったりするわけです。

コーチングならAさん。

行動分析学ならBさん。

パソコン関係ならCさん。

僕たちそれぞれの認識の中に、様々なカテゴリの第一人者が存在しているのです。何かのニーズが発生した時に、僕たちはまず、自分の認識している「その分野の第一人者」の事を頭に思い浮かべます。

僕はコーチとしても活動していますが、あなたの中で「コーチといえば」誰でしょうか?もちろん僕だったら嬉しいのですが(笑)、そうじゃない人もたくさんいると思います。

今は、このような「○○といえば××」という認識が、一極集中しやすくなった時代でもあります。

 

似たもの同士がクラスタを作る 

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photo credit: StockMonkeys.com via photopin cc

少し話を変えます。

皆さんは「類は友を呼ぶ」という言葉をご存知でしょうか。似たもの同士がつながりやすいという話なのですが、これは実際に起きている現象です。

引き寄せの法則とかそういう話ではなく、僕たちは自分の求める解釈に集まりますので、結果としてある解釈の下には似たような人が集まりやすいのです。

 

こういった人の塊のことを「クラスタ」と言います。人が自分の求める解釈に集うことによって、自然と周りに同じような価値観を持った人があつまります。

このようなクラスタの内部では、極めて情報の流れが円滑になります。クラスタ内では、ある考え方、解釈、価値観が瞬く間に共有されます。

 ところが面白いことに、自分の属するクラスタの人たちとは、どんどん情報が共有され、交換されていくのに対して、他のクラスタの人たちとは全くと言っていいほど接点が生まれないのです。

まるでパラレルワールドのようです。クラスタが変わると、常識すらも変わります。

 

クラスタ内での「評価と信頼」が生きる糧となり得る

先ほど、人が一極集中する話をしましたが、それは特定のクラスタ内での話だったりします。クラスタが異なれば、まったく預かり知らないことだったりするのです。

つまり、僕たちが自分の解釈を人に聞いてもらいたいと望むならば、そのクラスタ内で特定のカテゴリにおける第一人者を目指すことになります。クラスタ内で「○○ならば××さん」と評価されること、信頼されることを目指します。

そうするうちに評価が非常に高まってくると、その評価がクラスタを飛び越えていきます。いままではインディーズな分野での評価だったものが、一気にメジャーデビューするかのようです。 

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photo credit: opensourceway via photopin cc

僕たちは、自分らしいことや自分の幸せにつながることをしたいと願います。ただ一方で、現実問題として、僕たちは生きるための糧を必要としています。

糧を得るためには、どこかのクラスタで評価され、信頼され、必要とされていることが大切です。何らかの形で人々に役立ち、喜ばれているからこそ、その対価として糧を得ることができるのです。

解釈過多の時代においては、僕たちは自分の所属するクラスタにおいて、「自分をどう役立てていくのか」という視点を欠かすことができません。

 

もう少し分り易く言うならば、いま、僕たちの手の届く範囲の人たちに対して、自分がどう役立っていけるのかという視点を持つことそこそが、人々から求められ、必要とされるための要件なのです。

より多くの人から求められるようになると、クラスタ内の特定のカテゴリで僕たちは第一人者となります。第一人者は、その分野において極めて自由に振る舞えます。それだけの影響力を持つことができるのです。

こういった、いま手の届く人の役に立つという考え方は、自分の幸せな生き方を目指す上において、とても重要なことだったりするのでした。