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これ僕.com:行動分析学マニアがおくる行動戦略

意図と行動のギャップから生じる「不自由さ」への挑戦。果たして僕たちに自由はあるのか?

知の目覚め(4):感情の奴隷となるか、それともエンターテイメントとして楽しむか。

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photo credit: marfis75 via photopin cc

割とよく言われることではあるのですが、事実と解釈はちゃんと区別しておいた方がいいです。解釈が事実であるかのように語られるケースは、本当にたくさんあります。

知の目覚め(2)で書きましたが、あまりにもたくさんの要因が絡み合うこの世界には、基本的に正解はありません。真実(事実)なんて分からないことの方が多いのです。

その中で僕たちは一生懸命考えながら、これかな~…と自分なりに納得できる解釈を見つけ出します。素晴らしい解釈は、時に僕たちを感動させますし、自分でそれを見つけた時はあまりの嬉しさに「おおお!これだー!」ってなります。

なるのですが、それでも解釈は解釈であって、真実ではありません。事実とは単に観測できたものでしかないし、そこには何の意味もありません。

 

僕たちは常に、自然に、あまりにも当り前に
いまこの瞬間にも解釈を作り続けている

事実と解釈の違い

目の前で男性が大きな声で叫んでいる。これは事実。

その男性が自分の友人であり、その男性が叫んでいるのは、いま彼と自分とは喧嘩の最中であり、売り言葉に買い言葉でエスカレートしてしまったから。これは「目の前で男性が大きな声で叫んでいる事実」に対する解釈。

その男性は見ず知らずの人であり、その男性は車に轢かれかけている僕に向かって、大きな声で注意を促している。これも解釈。

その男性はUFOマニアで、宇宙人を呼ぶ儀式として大きな声で怪しげな言葉を叫んでいる。これも解釈。

 

僕たちの言語活動によって、事実に意味が与えられる

事実に何らかの意味をもたせるのは、僕たちの言語活動です。その言語活動の産物として、解釈があるのです。

おそらく、事実に対してそれを観測した人の数分だけ解釈が存在するでしょう。それは僕たち人間にとってもあまりにも自然な活動なので、意図せずこの瞬間にも解釈を生み出し続けています。

僕たちは考える(=言語活動)生き物なのです。

 

自分の解釈を捨てることの難しさを自覚する

さて、そんな考える人である僕たちにとって、とても難しいけど、常に覚悟しておくべきことがあります。それは、「解釈と矛盾する事実を観測した時には、自分の解釈を捨て去り、新たな解釈を作りなおす覚悟」です。

解釈は事実ではないのです。どんな素晴らし解釈にも「正しさ」はありません。常に誤りを含んでいる可能性があります。

故に、解釈に矛盾する事実を見出した時、それまでの解釈に固執するのではなく、より事実に即するように解釈を変化させるのが本筋です。

 

しかし、これが非常に難しい。僕たちは一度自分なりの解釈を手に入れると、それに沿った事実を好んで収集するようになります。

自分の解釈と一致する人の言葉、過去の出来事を、意識的にせよ無意識的にせよ選択して頭に浮かべます。僕たちはただ自然にしていると、自分の解釈が強固になるよう活動してしまいます。

 

強い感情が知性を曇らせてしまう

強いネガティブな感情がネガティブな解釈を呼ぶ

更に厄介なのが、感情です。感情は時に僕たちの知性を曇らせます。感情を肯定するよう、思考の働きを限定させてしまうことがあるからです。

例えば、僕たちがイライラしている時、目の前の出来事(事実)にイライラするような解釈をしがちです。そうすると、自分で作った解釈によって更にイライラを募らせます。イライラがイライラを呼ぶスパイラルに嵌るわけですね。

 

強いポジティブな感情が賢明さを失わせる

この問題はネガティブな感情にだけ起きるものではありません。

僕自身、身に覚えがあるのですが、自己啓発セミナーなどに行くとめっちゃテンションが上がります。そうすると、まるで熱病に侵されたかのように、ポジティブスパイラルに入り、無謀なチャレンジをしてしまいます。

僕には色んなことができるんだ、と自分を大きく見せてしまいます。その状態ってなんか重心がなくって、宙に浮いている風船のようにフワフワしてるんですよね。自分で自分の頼りなさをどこか自覚しているのに、感情がそれを自覚するのを許してくれないというか…。

本来、人は地に足をつくという制限の下でこそ、自分の思う方向へと足を踏み出すことができるものです。

 

感情をエンターテイメントとして楽しむ、という解釈

感情には本来”意味”は無い

そもそも感情にあまり大きな意味付けをする必要はありません。例えば、こんな方がいます。「ネガティブな感情をしばしば感じるので、どこか自分はおかしいのではないか?治さないといけないのではないか?」

いえいえ。ネガティブな感情を感じるのは、健全な証拠です。”自分はおかしいのでは”という解釈が、自分をより不健康にしています。

そもそも感情は単なる現象、つまり事実です。良くもなく、悪くもありません。何の意味もないんです。意味とは、常に僕たちの言語活動が作り出した解釈です。

 

感情をどんな文脈で解釈しているか?

感情に意味を持たせているのは、常に僕たちの解釈です。どんな文脈で感情を解釈するかで、感情の持つ意味は変わるんですね。

ネガティブな感情は不健全で、ポジティブな感情は健全である…という文脈においては、ネガティブな感情は忌避したいものになります。

動物として生存するために…という文脈においては、感情は生存に有利な行動を促すための動機として機能しています。

感情とは単なる生理現象に過ぎない…という文脈においては、感情に特別な意味付けをすることはないでしょう。

 

感情とはエンターテイメントである

さて。最後に僕が気に入っている感情の解釈をご紹介して、今回は終わりにします。

感情とはエンターテイメントである。

皆さん、自分の好きな映画や小説、漫画、アニメを思い出してみてください。面白いものほど、僕たちに様々な感情を味あわせてくれます。

怒ったり、イライラしたり、悲しくなったり、不安になったり…とてもおかしかったり、嬉しくなったり、感動したり…そのどれもを僕たちは楽しんでいるはずです。僕たちは、感情を楽しむことができる。

それは感情をポジティブに捉えろって意味ではなく、ネガティブなものはネガティブなままに、ポジティブなものはポジティブなままに、そのまま楽しんでみればいいんじゃないかなぁ、と思う次第です。

感情とは、人生におけるエンターテイメントである。